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■ 中毒性日記 2003
志賀のひとりごと、日記に綴ってみました。
変態小説家
志賀による、「志賀」を舞台にした空想連載小説。
志賀自賛
志賀の、「志賀」にかけた想いのあれこれ。
年中ムキューっ
志賀、昼の顔。
The Right ? Staff
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季節外れのとっくり(死語)、もとい、タートル(かっ、亀って!)ネックセーターを出す。違和感無く、街は寒くなった。少し早めに雨の中、景色のいいカフェでPCを広げてあれこれやっていた。ライティングされたハーバーランドのビル群、観覧車、遊覧船。止んだ雨が一層風景を際だたせている。

その間、PCから転送メールが携帯に届く。>>>20日の日記を見た、まだお会いしたことのない主婦の方からのメールである。

『カンタくんの話を読んで、忘れかけていた大切な事に気付かせていただきました。息子と向き合う事が出来そうです 志賀さんの日記に助けられました』

こそば痒いが、僕の書いたことが誰かの「気付き」になっている。意識して書かないで良かったと思う。どこかでも書いたけど、誰かを感動させるためにやるのではない。「気が付けば自分の足跡となった」のが、僕の性に合っている。理由は解らないが、この方の「助け」になれたことは素直に嬉しい。

お客様でもある建築家の竹山聖さんの本を読んでいたときに、「家内」という言葉について書いてあり、フト思った。広義で家の中にいる人、すなわち妻のことであるが、今時こう使う人は少なくなった。「ウチのサイが…」「あんたとこサイがおったんかいな」とは先日お兄さんが亡くなった、夢路いとしこいしの漫才の一節ではあるが、妻とは言っても家内という言葉は死語に近い。

実際「家内」にずっといる奥様の数は少ないのだろう。やらなければ行けないことは家の中だけではなくなった。例えば仕事を持つ女性も多い。日本の世相・生活事情では、それも免れられない状況なのだろう。それで「家内」を顧みる余裕がないのならば、おそらく家庭内にいる人々に目を配ることもおろそかになりがちである。しかし仕事を「家外」に持ち、家事全般もやれというのは不公平である。女性が独立心や向上心を持ち、「家に入る」ことだけの生活を望まなくなるのは、この時代自然な方向性だと思う。

かと言って、それでイライラするからと家族に当たったり、愛情を忘れるのは筋違いである。DVなど以ての外だ。つまり昔で言う「家内」は、昨今女性だけの呼称ではなくなった。男性の協力も不可欠なのだ。僕は店を「家」と思っている。自分が家内という認識がなければ、続かないし続けてゆけないものなのだろう。

つまり僕と結婚すれば、時に僕は「家内」となる場合もあると自覚していると、遠回しにサイトを見ている女性諸君に自己アピールしているのだ。ぷぷっ。


※「志賀」本日のコトゲンゴンその18《一(言)・提(言)・一過(言)》
【「キャイーン」のことを「キャらんQ」と言っていたおばさんを知っている】

※ラブリー志賀の「干しぶどう日記・13日目」>>>キッカケはコチラ!
【うぅっ……午後から天気回復に期待……干さねば!】

加納町 志賀とはどんなヤツ?
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