www.bar-shiga.com
■ 中毒性日記 2005
志賀のひとりごと、日記に綴ってみました。
変態小説家
志賀による、「志賀」を舞台にした空想連載小説。
志賀自賛
志賀の、「志賀」にかけた想いのあれこれ。
年中ムキューっ
志賀、昼の顔。
The Right ? Staff
ホーム >>>
8/11「あの日言えなかったこと」 バックナンバー >>>
※志賀速報!【盆休みは 8/13〜16日 の予定です 多分】

三宮の暑い中、見知らぬ酒屋さんが僕のデザインした角瓶のTシャツを着て、トラックから荷物を下ろす姿を見た。僕が関わったことなど知らないのだろうけど、街を旅する僕の作品が頼もしく映る。子供はいないが、子供のような作品がそうやって確認できればそれだけでいいんだと思う。

店に数々のドラマがあることは何度も書いてきた。それは日々店で訪れる感覚にもあるが、10年という時を経て、あの会場で繰り広げられた光景にもそれらが溢れていた。……別れた二人が「もう一度、やり直すんです」と報告をくれた……離婚した女性が、大きくなった子供達を連れてきた。僕が知ってるその子はまだ言葉もまともに話せなかったのに、日に焼けた小学生男子になっていた…… 「小学校から知ってるんですよ」偶然近くの席に座った家族が、よく昔を知る者同士だったと笑っていた……そんなドラマが、実は僕の中にもあった。

最後の挨拶をするときに言おうかどうか迷っていて、結局言わなかったことがある。あの会場に、京都から父親が一人で来ていたことだ。かなり昔に書いたことと重複するが、僕と父とのことを長くなるが書かせてもらう。

小学生の頃ラグビーを始めた切っ掛けは、同志社大学出身の父だった。母方の伯父さんが京都大学のラグビー部だったこともあるが、小学生時やはり京都・西京極競技場によく連れて行ってくれたのは父だった。いつか同志社大学に入れたかったのだろう。子供心にそんな感じはしていた。

そしてある日、理由は未だにハッキリしないが、父は家を出た。新聞記者だった父は、「物書き」という特技と共に「変わり者」でもあった。残された母と小学生の弟、長男として僕は家人を守ることと、父を憎み続ける使命感を持った。それは僕が中学の頃の話だ。姓は変わらず「志賀」を名乗った。

高校の頃も大学に入ってからも試合会場で父を目にしたが、会釈はするけれども言葉は交わさなかった。たまに来る手紙にも、長男として読むけれど、息子としては上の空で目を通していた。社会人になって家を出てからは、教えた連絡先にまたたまに来る手紙に対し、ほとんど返事はせずにいた。それは残された家族を守る僕の、微かな抵抗だった。そうして時が経ち神戸に住み震災に遭い、店を始めることになった。また居場所と、その案内を父には送った。

1995年11月、店をオープンして3ヶ月後に父は扉を叩いた。当然と言えば当然だが、今まで互いに酒を酌み交わすことなどなかったわけだから、その日は複雑な表情の中に何かが許せたような気がした。酒とは不思議なものである。僕が31歳、今からおよそ10年前のことだ。

2001年僕の誕生日6月3日、ホームページを立ち上げた。するとある日メールが届く。定年後京都の大学でジャーナリズムの講師をしている父からだった。老齢の手習いか、PCを持たされてそんなことをするようになった父は、物書きの習性よろしく、デジタルツールを使って手紙より頻繁にメールを送ってくるようになった。それにしても僕の返事は、極稀だった。

数ヶ月前、店の近くでバーを営む体育大学金村先輩のブログに父から書き込みがあったことを、先輩が教えてくれた。ハンドルネームは「京都の先生」だった。そして僕がサイトの日記部分だけブログで立ち上げて間もなく、こちらにも書き込みがあった。こちらには「京都のお父さん」だった。

滅多に返事をしない僕なのに、この時ばかりは思いっ切りそこには書かずにメールで返信した。『意外に周囲に反響があって困惑しています 店も、サイトも、僕の「謎?」の部分がウリみたいなもんなので バーマンは、「現実に引き戻さないこと」らしいから、そのように書かないようによろしく頼みます』

今から思えばそれは仕方がないことだったんだと思う。息子というものはいつからか、パパからお父さん、父さん、オヤジなどと年齢と共に呼び名も変わる。父にとっての僕は、中学の頃の「お」父さんで止まっていたのだ。そして僕も未だに父さんとしか呼べず、それはけっして「オヤジ」ではない。

7日の周年パーティーにて、同志社出身・元ワールドラグビー部の東田氏と、僕の大学同期・ラグビージャーナリスト村上のいる席に父がいた。ラグビー好きな父にとって東田さんは「ずっと観ていた」人だし、村上にとっては就職するときに父の教えを乞うたという関係から(それは後に村上から聞いた)久しぶりの出会いだったようだ。僕は当日バタバタしていて、その光景に東田さんや村上が気を遣っているのだろうと思いながらも甘えることにした。

僕はまた動き回る。気になるその席には知らぬ間に金村先輩もいて、神戸製鋼の中道や吉田明、南條達がいた。ラグビー関係者の席なのにその真ん中には父がいて、子供のように笑ってた。偉そうにしゃべってたんじゃないかと心配になりながらも僕は、彼らに感謝すると共に、なぜか嬉しくなっていた。

父は気付かぬ内に、僕とは会話もせずに会場を去っていた。おそらく、あの席にいたラグビーの面々の方が、ここ数十年の僕よりも言葉を交わしたのだと思う。ラグビー好きの父にとっては思いも寄らない想い出と、多くの方々に囲まれている息子の姿を目に焼き付けたことが神戸のみやげとなったのだろう。

心配するな。神戸は、神戸の人々はこんなにも優しい。

そして姓が、「志賀」でよかったと今は思えるようになっている。


◆この日記に コメント したい方は、神戸加納町「BAR志賀」>>> 【ブログ版】へ! (HP日記のみ更新・ブログのみの画像もありんす! あなたの >>> ワンクリック が、志賀の未来を変えるか!? 架空請求はありません、念のため)

◆携帯から見られるブログ版! http://ameblo.jp/m/


※志賀Design参加!【T-SHIRT PROJECT 3作品(SUNTORY・Yakult・Steelers)公開中! >>> many thanks from KOBE コンテンツへ

※ダジャレー男爵・志賀が、ワインセミナー講師だってさ!
【ホテルトアロードのワインセミナーは、偶数月第一週日曜に開催されます 詳細とお申し込みは>>>こちらにお願いします】

加納町 志賀とはどんなヤツ?
>>>プロフィールとバイオグラフィー(一部)はこちら……

Copyright@Toshiya Shiga. All Rights Reserved.
Send Mail to Shiga
n