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■ 中毒性日記 2004
志賀のひとりごと、日記に綴ってみました。
変態小説家
志賀による、「志賀」を舞台にした空想連載小説。
志賀自賛
志賀の、「志賀」にかけた想いのあれこれ。
年中ムキューっ
志賀、昼の顔。
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南條賢太の親戚の兄ちゃんは面白い人だ。偶然にも、僕の大学出身である。

文末のエルメスソースを彼の元へ持ってきたその人である。その先輩は、雑炊にはウルサイらしい。幾つかのポイントがソコにあるのだが、まず「てっちり(フグね デカイ尻ではない)」と「蟹ちり(蟹すきではダメらしい)」を二つやって、それぞれの出汁をブレンドするのが条件だ。そして必ず必要なこと、それは、中身を食べた後の『蟹の殻』をもう一度鍋に入れることだそうである。

賢明な読者の貴兄・貴女なら、もうお気付きであろう。これらのことは「店」では出来ないことである。例えばソースなら、何かにかけた時の美味さよりも、ペロッと指で舐めてみた旨さの方が印象に残る。「うまさ」と辞書で調べてみると、美味さ・旨さ・巧さ以外に、解りやすい読み方・表現がある。『甘さ』である。子供の頃の想い出は、まず「甘さ」に始まって変化してゆくモノだ。

しょっぱい、辛い想い出は、鮮烈ではあるが懐かしさではない。大人になってからやっとこさ(死語)理解できるモノだ。だから、甘さという感覚は入りやすいし、ずっと忘れない。蟹の殻をもう一度放り込むことなど、店から見れば邪道だが、人からすれば実は王道である。そこからでる甘みという甘(うま)さは、アウトドアや男の料理のような原点があるのだ。

多分、店に立つ料理人はそんなことを実は解っているんだと思う。しかし、解っていても出来ないことがある。僕の店で言えば、お客様に見えないようにしゃがみ込んで、冷蔵庫から出す角瓶を「キャップで啜り飲む」行為だ。ラッパ飲みってのもそうなのかも知れない。堪らなくウマイ。僕等は小さな頃、ラムネの瓶で飲んだ。小綺麗なカップに注いだ色の付いた舶来のドリンクよりも(はっ、舶来ってアンタ!)味わい深く尊いモノだった。買い食いした、体に悪そうな色付きの粉果汁なんてストローでチビチビ舐め、甘みを味わった。

下町という一角、今は無き小さな頃遊んだ公園、行ってはイケナイよと親に言われた場所、それぞれに甘さがあった。竹藪の隠れ家に行くときにも、チュッパチャプスを舐めながら通った。アイスキャンデー持ったまま自転車乗って、コケたし(離さなかった)、風で溶けた(手がネチャネチャした)ものだ。

それは会社にもスポーツにも色んな業界にも共通する、ちょっとしたヒントなんじゃないかと、その先輩に出逢って気付かされたような気がする。
僕の店が「家」でありたいことにも近い感性だ。


※サイト内裁判・その1「エルメスソースの行方」(>>>3/24日記参照
【大阪は東住吉区にその会社はある 被告より「その会社は昔、生野区小路になかったですか?」と聞いていたのでその旨を言ってみる 「よくご存じですね 昔はソコにありました」と返された も、も、もしや、逆転勝訴か!!】

加納町 志賀とはどんなヤツ?
>>>プロフィールとバイオグラフィー(一部)はこちら……

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