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■ 中毒性日記 2004
志賀のひとりごと、日記に綴ってみました。
変態小説家
志賀による、「志賀」を舞台にした空想連載小説。
志賀自賛
志賀の、「志賀」にかけた想いのあれこれ。
年中ムキューっ
志賀、昼の顔。
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※ココだけの志賀速報!【本日京都に出現……だからナニ?

日曜の朝方、新開地のファミレスにいて日記を書く。席に案内されたのはいいが、皆さん色々片付けが忙しいらしく、なかなかオーダーを聞きに来ない。マニュアルというモノが存在するはずだろうが、受け持ちテーブルが決まってないのか。案内した係りは気にならないのだろうか。ファミレスの干渉されないコンビニエンスさがこの時間には良いのだが、放ったらかしは困ったもんだ……

土曜日の店で最後に来たお客様と話をしていたとき、どういうわけでそうなったのかは思い出せないがこんな話をした。「僕の店は、神戸であろうが京都であろうが、それがニューヨークであっても変わらんと思いますよ」

……カップのコーヒーが無くなった。ファミレスの特権、お代わりがなかなか来ない。しつこいお代わりはうっとおしいくせに、来ないと損した気分である。これを「すいませ〜ん」と呼ぶことは、外食産業に屈することだと躊躇しながら、テーブルの端ギリギリにカップを置いて微かなアピールをしていた……

いつか書いた「外に向けたクリスマスイルミネーション」が、店はまだしもなぜ個人邸ならオカシイのか。それは単純な理由だ。そんなことして、もし「素晴らしいイルミネーションですが、お宅のツリーも大きいんでしょうねぇ ぜひ見せていただけませんかねぇ」と見知らぬ人々に言われて、アナタはウエルカムドリンクまでも出してしまうのか、七面鳥をワイルドターキーに喰らわすのか?
だから、アレは不自然なんだと思っている。

多分店であの時、こういうことが言いたかったんだと思う(「僕の店は、神戸であろうが京都であろうが変わらん」って話ね)。一般に店ってのは「外に発信するモノ」である。それは通りすがりの人・観光客などを取り込むために、宣伝をし回転率を上げる努力を惜しまないことや、坪効率ギリギリに席数を増やし、ディスプレイに「今」を使うこともそうだろう。もちろんそれらは、商業ベースにして、極自然で当たり前のことである。否定はしない。

対して、僕がどこで店をやっても変わらないと言い切ったのは「外に向けてない」ってことである。だからガラス張りじゃないし、看板もない。季節のディスプレイもなければ、周年(10周年・2005年は盛大に、ハリウッド女優と共に過ごすクルージングパーティなぞ思案中 多分懸案事項のまま)もやらない店で、どうも地元密着ではなく神戸飲食店マップにも参加せずに、104・電話番号案内にもない。ほんと、ナイナイづくし(死語)の不親切な店である。

「外に向けてない」は、お客様を大切にしないと言っているのではない。敷居をまたいだお客様とはちゃんと対峙する。表札のせいかゼンリンの住宅地図に載っているのは笑えるが、今までの日記で口癖のように書いてきた『店は家だ』というキーワードにあるように、駅前ティッシュ配りで知らせたり、クーポン券を作る必要はないということなのだ。極論を言えば、僕の店も今いるファミレスも似ている部分はある。わざわざ外に向けるより、そこに立つ自分に向けておく方が楽で、それが来たお客様にも繋がることなんだと考えている。

サービスはシンプルな方がイイ。テーブルの端っこギリギリのコーヒーカップに、何も言わずともウエイトレスがやって来て、コーヒーが満たされた。それだけでさっきのことが色々帳消しになって「また来てもいいな」と思わせる。

至極単純なことだけど、店にはそういうことの方が実は必要なんだとも思う。


※イカリン志賀の「本日のハラタチ日記その62
【2月よ、もう2月なのよ チョイと焦る自分にハラタチ】

加納町 志賀とはどんなヤツ?
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