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TVRは、フェラーリ・ポルシェに次ぐスポーツカーメーカーではあるが、知る人は少ない。この車「TVRキミーラ」は4リットル、1t余りの車重で300馬力、42kgm/4000rpmの最大トルクを発する。軽いFRPボディで、0-100kmのメーターインまで4秒そこそこで到達し、その部分では360モデナに勝っていた。ギリシャ神話に出てくる「火を噴く怪獣」の意、キミーラはその名の通り咆哮を上げて地面を這う。最高速は252km、360モデナにいたっては300km超で駆け抜けるわけだから、ここから西へ続く直線では不利である。
トンネルに入る。お互いのエグゾースト・ノートは、改造したマフラーとは違う、心地よいユニゾンを隧道の中に響かせる。イタリア車が「小粋」に奏でるなら、英国車はそれに「粋」に応える。初速で勝るTVRは、このトンネルを抜けるまでは優位に立っていた。イタリアンレッドのモデナは徐々に、斜め後ろから見るとセクシーなスタイルをしたTVRのテールに、触れんばかりに襲いかかる。助手席のレディ・ハリバートンは「この戦いに勝った方に私を捧げるわ」と、一瞬で過ぎ去る外灯に照らされる度にオレンジ色に輝いている。しかしいつもと勝手が違っていた。このまま西に走れば走るほどに差は縮まり、横に並ばれた日には、窓越しにサイレンサーが顔を見せるかも知れない。敵とも判らない相手に、今は意地を張るときではない…。
彼は、半年前の事故を思い出していた。記録的な大雨の日、FR車のキミーラは後輪が滑り出しロックする。時計回りにスピンを繰り返し、下り坂を流された。それを、止めてくれたものは自らの力ではなく、皮肉にも縁石とガードレール。気が付けば歩道に乗り上げていたその時、リタイヤし敗北を認めたF1レーサーのごとく呆然と雨も気にせずに立ちすくんでいた。悲しみと自責の念が込み上げてきたのはずっと時間が経ってからのことだった。
まだ生きていたエンジンとFRPボディーを再生するのに要したこの半年。帰ってきた最高に大切な女性のごとく、もうこいつとは離れたくはない。彼は一つの賭けに出た。
トンネルを抜けて間もなく、追い越し車線を走る彼の車を、フェラーリは走行車線から何度も追い抜きにかかる。度に、前をはだかるTVR。その幾度かの繰り返しから名谷インター方向へ左折。左に明石海峡大橋に続くジャンクションが近づいてくる。本来降りるべく名谷に抜けると見せかけて、直前でタイミングを計り一気に淡路へとハンドルを切る。フェラーリはそのまま名谷へ。2台のユニゾンは終幕となった…。
この時間に明石海峡大橋を渡る車は少ない。あっけなく対岸に着くとサービスエリアをUターン。橋を戻る途中、側道に車を停める。車を降り、空が白み始めた神戸の街並みをしばし眺める。風景の安堵感と心地良い風が、先般の興奮を忘れさせてくれる。あのフェラーリはただの走り屋で、カバンを狙っての横行ではなかったのだろうか。しかしこれから、誰にも襲われないという保証はない。家に帰らずに、夜明けを待ってこのまま貸金庫に行こう。その方が安全だ。
かくして彼は、レディ・ハリバートンと一夜を共に過ごすこととなった。
つづく
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