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■ 中毒性日記 2010
志賀のひとりごと、日記に綴ってみました。
変態小説家
志賀による、「志賀」を舞台にした空想連載小説。
志賀自賛
志賀の、「志賀」にかけた想いのあれこれ。
年中ムキューっ
志賀、昼の顔。
The Right ? Staff
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京都にいた月曜日。近頃京都へは車でなくJRが多いので、ちょっとした移動は辺りを走る京阪バスだったり、僕の住んでいる頃にはなかった地下鉄だったりする。昼間に母親が教えてくれた、山科を巡回する「くるりバス(母はクルリンと言っていた)」が便利だというのでバス停の場所を聞き行ってみた。住んでいた頃の20数年前と何も変わらない細い道に、そのバス停はあった。twitterでそのバス停越しの寺と田んぼを写したら、フォロワーの方に「凄い名前ですね」と突っ込まれる。なるほど確かにその地名は「様子見」だった。小学校の頃から僕には馴染みのある場所だが、初めて聞けば違和感のある地名というものは、大人になる前、つまりその意味を知る前に反復すると、ただの呼び名となってしまうものである。

そう言えば、山科を越えて西へ、三条や清水五条坂に抜ける山道の頂上には、「将軍塚」というその昔の首切り塚がある。そこを少し降りたところ、「血洗い町」は今も尚存在するおぞましい名の地域だ。僕の通った高校までに、随心院という「小野小町」の恋文(ラブレターのことです これも死語か)が残されている寺があり、僕らラグビー部のたまり場は小町センターのお好み焼き屋だった。学校のすぐ横には「醍醐天皇」の醍醐三宝院、その終点が京阪電車の「六地蔵」駅である。考えてみれば「様子見町」並みに、凄い地名で育ったわけだ。

今は神戸の西に位置する塩屋、「垂水」区に住んでいるが、ここもその名の通り昔は複数の滝(垂水)があったそうだ。「滝の茶屋」という地名もその名残である。

そうなると気になるのは、店のある「加納町」である。

明治中期から区制施行まで「神戸」を冠して神戸加納町と呼ばれていた。昭和6年(1931年)より神戸区、昭和20年(1945年)より生田区、昭和55年(1980年)より中央区。 旧・生田川の河川敷で、右岸下流に設けられた外国人居留地が河川の氾濫の被害を受ける事から、明治4年(1871年)6月に河道の付け替え工事が行われ、旧河川敷13万8千平方メートルを一番が和歌山町の有本明、二番が神戸上組の加納宗七で落札し、談合の結果共同で市街地再開発を行う事になり、同年11月から埋立工事、中央の延長1600m・幅18mの道路の東西に街区が作られ明治6年(1873年)5月に完成の際西側に加納宗七に因み加納町と名づけられた。加納宗七はその他、旧生田川下流を開いて港を作り、加納湾と呼ばれ、一緒に工事に関わった有本明に因み有本町の地名も用いられたが町名として定着しなかった。神戸港の大修築工事で加納湾は無くなった。

そんなことはつゆほどにも知らず、僕はずっと「神戸加納町 志賀」と言ってきた。それはおそらくこの店を始めたあの震災の年、まだ神戸に来て数年の僕は「子供」であるがゆえ、ただその場所に愛着を持とうと覚えた言葉だった。

今は少し違う。

ただの呼び名ではなく、僕のID、居場所になっている。


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※今日のヒトゴトではないヒトコト&ヒトリゴト&ヒメゴト
【また監督をやることになった、同級の元サッカー選手と月曜夜に話した  色々背負いながら、互いに神戸を盛り上げようと誓い合った

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