www.bar-shiga.com
■ 中毒性日記 2010
志賀のひとりごと、日記に綴ってみました。
変態小説家
志賀による、「志賀」を舞台にした空想連載小説。
志賀自賛
志賀の、「志賀」にかけた想いのあれこれ。
年中ムキューっ
志賀、昼の顔。
The Right ? Staff
ホーム >>>
1/24「仁義なき、37年前のスターより」 バックナンバー >>>
気温は上がらないが穏やかだった土曜日、でも腰の「ぬくりんこ」は手放せない。

先日、お客さんと「仁義なき戦い」の話をしていて、DVDを借りて全作を見直している。過去の記憶以外に、広島その他の舞台のほとんどが京都であることを見付けたり(東映の撮影所近く、新京極、八千代会館、大宮東映、堀川通など)、仁義ガール(ボンドガールみたいなもん)の中では、僕は梶芽衣子がタイプだと再認識した。70年代前半、当時最上の娯楽である映画は多分に漏れず、仁義なき…であっても二本立て併映ロードショーであり、梶芽衣子の「女囚さそり」もどれかの作品の併映だったようだ。同じく、広島死闘編に出ていた千葉真一も、「ザ・カラテ」だったか、ブルース・リー人気に後押しされたブームも手伝って併映に顔を出している。つまりは僕の小学校時代、千葉ちゃん(僕はそう呼んでいた)は僕らの憧れであり、一世を風靡する人気者だった。

日体大の体操部だった千葉は、怪我に因る故障で体操を諦め武道の道に入る。中学生の頃だったと思う。僕は、体操のユニフォームで吊り輪のL字腹筋をしている表紙の、千葉真一著のトレーニング本を買った。そこで最も記憶に残っているトレーニング。仰向けに寝転がり、伸ばした両足で大きく1、2と数字を書いていく。これが50まで書けたら、君は空手の有段者に腹筋を殴られても大丈夫だ!と千葉は断言していた。結局、50なんて数字に到達することなどなかった。

そう言えば子供の頃に千葉にサインをもらったことを思い出した。おそらくは東映の京都撮影所で、大俳優それぞれの控え室がある建物の中でもらったものだ。スターには、それが使われていなくても常に名札と共に部屋が用意されている。反して大部屋俳優、俗に言う斬られ役(殺され役)もその名の通り詰め込まれる部屋があるが、そこで父と仲が良かった川谷拓三を擁する「ピラニア軍団」に会えたかどうかは覚えていない。今から思えば、そこにいたはずの室田日出男や志賀勝、後の悪役商会を立ち上げる八名信夫、小林稔侍までもいたかも知れない。いずれにせよ今では考えられない、東映、東宝、日活問わず、配給会社の垣根を越えたオールスターキャストは、深作欣二の手によってそれぞれ主役として光り輝かせるものだった。

サインを久しぶりに見た。9歳の僕に「ちゃん」付けされた宛名がある。千葉真一と見て取れる斜めのサインの下に、日付が書いてある。「1973.4.18」…それはまさしく、仁義なき戦い全盛期のものであった。以下、関連文抜粋。

千葉真一。1973年(昭和48年)の『仁義なき戦い 広島死闘篇』では、事実上の主役である山中正治役をやるはずであった。しかし北大路欣也が「セリフがどぎつすぎる大友勝利役をできない」と言い出す。監督の深作欣二から「この役は欣也には絶対にできんだろう お前ならできると俺は思う」と口説かれたものの、当時の千葉はブロマイドの売上げが4年連続No.1であり悩んだが、急遽の役の交代を快諾し、千葉が大友勝利役を演じることになる。そこで見せた傍若無人な名演技は、シリーズ中1、2を争う名キャラクターとして人気が高く、今でも語り継がれている。近年も若い俳優がヤクザを演じる時、「仁義なき戦いの千葉真一さんがやった大友勝利のような」であるなどと、役作りの参考にもされる。大友役は自身代表作の3本のうちの一つと千葉は語っている。

店の片隅に無造作に置いていたこのサイン、
37年ぶりに、あの千葉ちゃんに光を浴びさせてみたい。


※今日のヒトゴトではないヒトコト&ヒトリゴト&ヒメゴト
【そう言えば同じく小学校時代にもらった、 ウルトラセブンのサインもどこかにある  片仮名だから、ウルトラ兄弟は日本人であるに違いない】

※志賀氏的伝言板
来週は忙しいぞ!


◆この日記に コメント したい方は、神戸加納町 >>> 「BAR志賀」【ブログ版】へ! (HP日記のみ更新・ブログのみの画像もあり!)

◆携帯から見るブログ版! http://ameblo.jp/bar-shiga/


Copyright@Toshiya Shiga. All Rights Reserved.
Send Mail to Shiga