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■ 中毒性日記 2008
志賀のひとりごと、日記に綴ってみました。
変態小説家
志賀による、「志賀」を舞台にした空想連載小説。
志賀自賛
志賀の、「志賀」にかけた想いのあれこれ。
年中ムキューっ
志賀、昼の顔。
The Right ? Staff
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日曜日、お客様が来たら開けようと掃除をしながら待機のつもりが、有り難い同窓会流れの皆様。早々に引けたので、燃えるゴミを出そうとゴミ置き場に出ると、まだ12時前なのに向かいの玉撞き屋は閉まってた。日に日に閉店時間が早くなる。時代の波かと思えば仕方がないが、何だか寂しい。ふとその隣にあるいかがわしいホテルを見ると、思わず「ブタか?」と見間違えるほどの後ろ姿を持つネコに遭遇した。今マチは痩せ細っているのに、野良猫は宅麻伸…いや、たくましい。


僕が玉撞き、つまりビリヤードに目覚めたのは19歳の時だ。正確には中学生でキューを握ったが、それは近所のボウリング場での事であり、持ち方も細かなルールも解らないままの「イキガった」ものだった。体育大学に入ってから連れて行かれた玉撞き屋はそんな遊戯とは違う遊技場で、タクシー運転手(義足だが、滅茶苦茶上手い)や建築の職人、夜のお姉さんの匂いプンプンさせている小太りの社長(たまに加賀まり子みたいな店の子を連れて来ていた)、美容室のオーナーなど、学生の僕からすればかなり不思議な空間だった。入れ替わりはあるが大抵朝までそれは繰り返されて(この頃は15個の玉を使うローテーションゲーム)、通勤ラッシュの始まる前の街並を、白い息吐きながら帰った事を覚えている。

つまり遊技場はそれなりに色々と競い合う場所であり、明るくなるまでが勝負というシンプルな構図があった。外が白み始めて負けが込んでいる時には焦りが出るし、上級者に勝っている時には早く夜が明けてくれと願った。負けた人は勝った相手に「次はいつ来るのか」を聞き出し、リベンジを果たすまでそれは繰り返された(近頃は一度負けたら向かって来ないようだ)。よく言う「ハスラー(語源は【とぼける】転じて詐欺師、ペテン師)」、つまりあえてプロにならずにそれで食っている人までいたから、知らないで撞くとエラい事になった。まぁ大抵そういった輩は、玉撞き屋間で指名手配(出入り禁止)を喰らっていたので事前に判っていたが、鬼気迫るその内容に鳥肌が立ったものだ。今は昔の話である。

夜と昼、陰と陽のように、少々ギャンブル的要素の多い玉撞きには健全な日中のイメージが僕にはない。当時は24時間やってる店も結構あったから、昼間は専ら練習の時間で、夜な夜な現れるその時に腕を試したものだ。ハンデの割り振りはあったが、同じルールの同じ台で、学生の僕が大人に勝つ事もあった。実力主義。社会に出る前に学んだ、全てが己の責任で動く縮図だった。

その後プールバーと言われたブームもあったが、そんなものに左右されない玉撞き屋にあるものと言えばビールくらいで、腹が減ったら出前かカップラーメンしかない店がほとんどである。常連には昆布茶と菓子が出てきたりして、僕には少々背伸びだったけど、独特の緊張感のある遊び場だった。それは懐かしい原風景だ。


50数年続けて来た店の向かいの玉撞き屋は、内装もイマドキ風に変わり今はどちらかというとダーツの店になっている。しかももう朝までは営業していない。店を閉めてからほぼ毎日通った日々がもうそこにないのは悲しいが、それが三宮、このマチに人が少なくなった一つの現れなのかもしれない。

そう言いながら僕も、いつもより早く店を出た。三宮の日曜の夜は確かに静かだが、年の瀬の空気には趣がある。こんな夜は、19の頃を思い出す。


※今日のヒトコト
【帰りに中央卸売り市場で遅い食事をとった 帰り際おっちゃんから釣銭を渡される時に、下から「そっと」手を添えられる 最近どこでも多くなったが、あれは苦手で気持ちが悪い  店員が女の子ならいいんだが(^_^;)

※志賀氏的伝言板
年内は大晦日(元日の朝)まで 新年は5日から(予定)です


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