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水曜日。開店時間が20時なのに、20時40分まで自分の店に閉め出しを食らった志賀でございます。当店はカードキーで入る店で(電話して入って来る人もいる)、店主の僕はキーホルダー以外に携帯電話にも鍵を付け、財布にもカードキーを、計3通りの入り方ができるはずなのに、極稀に全て店に置いたまま出てしまう事があり、そうなると三宮のマチにいるキーをお持ちの方々を尋ね歩く訳である。
こんな日に限って、店ルック(死語)の半袖で、しかも通販で送って来た珈琲豆の箱を抱えて車に置きに行く途中だったので、マッチ売りの少女の様に、コーヒー豆いらんかぇ〜と大原女の如く、門前払いを食らった年の瀬の寂しい男を演じそうであった。車は開けられない、連絡の取り様がないのも困ったものだ。幸いに、酒屋さんが集金に来てくれるのを思い出し、ナンとか店に入った次第である。
考えてみると、困った時には神頼み以外に、昔なら「あの人に聞け」「助けてもらえ」みたいな人がいたものだ。そんな人は「生き字引」とも言われ、語り部のようにそこに皆して訪ねたものだ。田舎の村には村長さんがいた。町内には町長さんがいた。生活様式の変化から、それらは自治会長、組合長などに取って代わり、それは頼りになると言うよりは「回り回って来る」係の様なものとなってゆく。いつからか「長」の付く人の威厳や信頼は、さして重要ではなくなった。
学校には校長がいた。近頃は謝罪会見でしかお目に掛からない校長であるが、僕らの子供の頃は「おはよう」「さようなら」と声をかけられた、偉い人だった。
過日に、三宮大学(架空の夜の大学)ブースカ教授が言っていた。お仕事先の地域には昔からそのままの小学校があり、引っ越しもせず歴代の校長先生が住んでいるそうである。それが高齢の元校長となると、僕らよりも上の世代の方々が「校長先生!」と当時の子供の様に訪ねる事もあるようで、それがマチの治安や統率、ひいてはマチづくりに繋がっている様に思える…との事である。学校が統合されたり廃校になったり、マチが都市計画に入ったりしては、分からない話である。
いつか書いたが、僕の爺ちゃん(2001年、93歳で逝った)も小学校の校長先生だった。亡くなった時には、告別式の知らせが地元新聞に載っていたくらいだから、地域に貢献した人だったのだろう。僕の生家でもある下鴨での告別式に、人が溢れていたのを思い出す。それもどこかで書いたが、爺ちゃんの家は疎水縁にあって、向こう岸に着いた黒塗りのベンツ後部座席から降りて来た「如何にも」の強面が、ちゃんと並んで香典を置き丁寧に焼香をして行ったのも覚えている。
ブースカ教授の話を聞いて思った。あの男性は、マチにまだいた校長を偲んでやって来た、昔の生徒だったのではないか。そう考えると、僕の爺ちゃんは立派な「長」だったと思えてとても嬉しい話である。
僕はと言えば、昼間のデザイン事務所は社長で、店は店長とも言える。
「長」は何かに長けていないといけない。
喜ばれたり悲しんでくれたり、そんな人が辿り着く場所を続けられるのであれば、僕も爺ちゃんの様に「長」なれるのかも知れない。
※今日のヒトコト
【 僕が影響を受けた爺ちゃんについては、 >>>こちらでどうぞ 】
※志賀氏的伝言板
【水曜日 多分、ジャパンでマスワリ3連発は初めてである …玉撞きの話】
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