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金曜日、とうとうリハビリのスタートである。大事がなくて安心したが、暫くは通うことになる。21時を過ぎた辺りから、神戸は土砂降りの雨が降っていた。これはチャンスだと、読みかけの小説のページを捲り読み切ることにした。
0時前、男女のお客様が店を出て行った。お客様がいない空間は、直ぐさま自宅のようになる。もうとっくに雨が止んだが、バーという場所に向かう足並みを遠ざけたのは仕方がない。お陰で「象の背中」を一気に読み終えた。買って手にすることはない小説の類いだが、代理店男に手渡されたこの本は、放送作家を経て今に至る秋元康の言葉遊びとグルメがちりばめられていた。経験が説得力なのか、誰かの経験をカタチにするのが文筆家のやることなのか。それはともかく、彼が小説家ではなく作詞家であると解ったときに、読むスピードは加速した。
昨日の日記にあるように、若者に借りた「風の谷のナウシカ」も通して観た。決して、子供騙しではないことが解ったし、余計な知識なしで観て良かったと思う。宮崎駿が描きたかった事がどうだとか、そういうことを陳腐な言葉でここに表現すれば、こんな私的日記でもたちまち突っ込まれそうであるからして控えるが、僕はこの映画で、フィンランドの逸話「ワイルドダックス」のことを思い出した。
湖の畔に毎年やって来る野鴨の群れ。季節が変わると次の場所に飛び立って行くはずのワイルドダックスに、ある時人間は餌をやるようになる。それに慣れてしまった彼等は、もう飛ばなくなった。野鴨たる精神を忘れ、飛べなくなったのだ。
人間は喉元過ぎれば……という生き物だ。震災の瓦礫、誰かの潰れた家に向かって捨てることのなかったゴミを、復興だと囃される今のマチには捨てるようになる。死の恐怖、生の意義。自然の猛威、その尊さ。一度は知ったはずなのに、環境に優しくしようと始めたはずなのに、実践することや伝えることをしなくなる。そういった意味では、これらを勧めてくれた彼等は伝道者だ。想いが伝わってきた。
小説と映画を一気に読み観られたのは、僕に「他人事」「画の世界」だという意識が働いたからだと思う。(リリーフランキーの「東京タワー」は最後の数十ページを残して諦めた 何かが僕と似ていて、怖かったからだ)。そんな僕でも、客観視することを終えた時、自分の環境に転じてその教訓を、その気付きを生かし続けることができれば、原作者の意図と観る側の捉え方がリンクできる。
自分で餌を探す、生かす、活かすとはそういうことなのだ。
※今日のヒトコト
【 多分、「ナウシカ」はもう一度、「象の背中」映画化も観るだろう 】
※志賀氏的伝言板
【来週22〜23日に東京行きが決まったので、エアーとホテルの予約をネットでした 夜は表参道辺りに出没予定だ 】
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