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金曜が怒濤の嵐なら、土曜の店は凪である。酒造メーカーのバー向け冊子「ウイスキーヴォイス」を読み耽る。読めば読むほど、僕はバーテンダーではないなと思う。「良いバーの条件をひとつに絞ってみるなら、それは、昔も今も変わらないものを持ち続けているバー」という活字には響くものがあった。 そんな家主になりたいものだ。
僕は朝日新聞購読者だが、今はインターネットで全紙が見られるし、毎月の購読料を考えたらロスのように思われるものである。しかし僕は新聞紙が好きだ。サイトを運営している僕が言うのもヘンだが、どうも画面上で見る活字は、紙で見るソレとは違って見える。生きていない。伝わってこない。液晶の解像度に優れているこのMAC・G4にしても、何度も読み返そうとは思えないのだ。そんな意味合いで僕は、いつか紙にモノを書きたいなんて思ってる。
父が新聞記者だったこともあって、他の家庭より新聞の思い入れがあるのかも知れない。自宅で記事を書いていた父をよく見た記憶がある。濃いめの鉛筆、少し小さめの原稿用紙、確か罫線は緑だったと記憶している。「新聞を踏んで歩くな!」とよく言われたもんだが、その新聞の価値を理解できるまでに父とは離ればなれになったせいで、目の通し方すら知らない少年時代を過ごす。しかし、なぜか今では濃い鉛筆も、書くことも、「紙」の新聞も好きになっている。 親とは偉大なものだ。
朝日の夕刊、金曜日には三谷幸喜のコラムがある。僕はずっと読んでいる。どこかで書いたが、彼の作・演出、HRに見られるシットコム(アメリカのドラマに見られる、お客を入れて生で見せるぶっ通し劇)が好きだった。好きな映画もある。ドラマ「王様のレストラン」もよかった。助演陣が充実しているのは、カッコイイ悪役が光るアクション映画のようである。チト誉め過ぎか。
先日のそのコラムで書いてあったのは、彼が書く大河の次回作「新撰組」についてであった。近藤勇役に、香取慎吾を起用したことについての各方面の批判に、珍しく感情的な文章に見えた。「アイドルを起用して視聴率をとるのか」「近藤勇のイメージとかけ離れている」などと、各誌に叩かれているらしい。
実際のところ、歴史上の人物を特定する書物は存在しても実像がない。確かに僕のイメージの近藤勇は「新撰組始末記」の中のものであるし、コレまで演じてきた役者を見てもどれも似通っているから、頭の中はSMAPではない。しかし、なぜ大河が三谷幸喜であるか、彼に何を期待して本を書かせているのかを考えたときに、視聴者への「いい意味での裏切り」を想っているのは僕だけではないはずだ。いいではないかと、大いに期待している僕である。
新しいこと、前例のないことは、企業の古くからの派閥や取引にも似た「ホントは変えたいんだけど、変えられない」仕来り、慣習に相反する。僕は国営放送が「一歩前に出た」と思っているが、小さな頃に感じた『大河というブランド』だけは無くさないでもらいたいモノである。
しかし、あの三谷幸喜でさえ相当腹の虫が治まらなかったのがその文章から読みとれたわけだから、僕の日々が読者に手に取るように解るのも仕方がないことであろう。ただ、活字という責任を全うすることは並大抵ではないとは感じている。
ココに書くことは、「誰かが見ている」ということだ。
糧となり、圧力であったりするが、どれをも受け入れたいと思ってる。
※本日の志賀・ヒトゴトではないヒトリゴト
【近頃の大河は、正月のかくし芸大会とダブるのは僕だけか】
※《レディースTシャツ・拡販への道!》
【月曜以降に最終打ち合わせ いよいよ佳境】
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