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■ 中毒性日記 2003
志賀のひとりごと、日記に綴ってみました。
変態小説家
志賀による、「志賀」を舞台にした空想連載小説。
志賀自賛
志賀の、「志賀」にかけた想いのあれこれ。
年中ムキューっ
志賀、昼の顔。
The Right ? Staff
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普段飲まないワインだが、デザインしたボトルが嬉しくてまた飲んだ。ほろ酔いで、まだお客様が居るのに書いている。
カウンターのお客様は熱く語ってる。いい時間だ。

昨日文末に書いた、日比野氏のレセプションに出て感じたことをまた書きたくなった。はっきり言おう。僕は現代アートが何であるか、説明も出来ないし理解に苦しむことが多い。海外で活躍する前衛舞踏家の日本人が全身白塗りであるのも、よく解らない。日比野さんの作品もただ見せられただけでは、多分どう表現していいか判断に苦しんだと思う。

段ボールを額に飾ったものが40万円の値が付いていたりすると、その金額の根拠を探りたくなる僕は民間人だ。そのギャラリーで、ふと目に留まったものがあった。段ボール作品の家を描いたリトグラフである。そしてもう一つ、現在売っている作品集の中にも「当たり前」の衝撃を受けた。

この人のデッサンはうまいのである。「上手い」のではない。「巧い」のだ。かのパブロ・ピカソだって、ヴァン・ビンセント・ゴッホだってデッサン力は凄い。それはその人の幅なのであろう。コム・デ・ギャルソンのビビットな作品よりも、実はスタンダードなモノトーンが、僕は好きである。 以前書いたように、演歌歌手はポップスを歌えるが、その逆は長山洋子くらいなものだ。
だから「モー娘。」を認められない自分がある。

アイダミツオやバクザン先生の字も味があるが、多分あの人達の基本も凄いと思う。いつか「EZ-TV」で観た僕の歳前後の書道家も、毎日数時間の「清書」をするらしい。綺麗な字を書く筆耕家と、書家と言われる人との相違は、「書く」のではなく「画・描く」ことが出来うる人だ。

しかしほとんどの人は、そこを真似しないでそれを飛び越して「俄下手ウマ」な字を書こうとする。日比野氏のつくった橋達は、どう考えても「創った」わけで、真似する人は交錯した「工作」になってしまうのだ。

だから僕は今、書道家の字を習いに行こうと「画」策しているところである。「下手ウマ」の域をツキヤブル説得力のために。


※本日の志賀・ヒトゴトではないヒトコト
【僕は、お金があるからまずフェラーリを買う人ではない、ということだ】

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