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■ 中毒性日記 2003
志賀のひとりごと、日記に綴ってみました。
変態小説家
志賀による、「志賀」を舞台にした空想連載小説。
志賀自賛
志賀の、「志賀」にかけた想いのあれこれ。
年中ムキューっ
志賀、昼の顔。
The Right ? Staff
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僕は動物嫌いでもないが、前に書いたとおり朝方戻る自宅の駐車場に待つ、僕の車のボンネットを寝床にしようと目論む猫達には閉口していた。(写真を撮ったと書いたが、あまり近よると彼らは逃げてしまうため遠くからの撮影だった しかしそれはサイトにアップするほどの鮮明さは備えてなかったので、見たい人は店にあります)

しかし巷で見る、透明のペットボトルに水を入れた猫避けを置くには暗すぎて(と言うよりは、駐車場にそこまでする奴は恥ずかしい)、偶然荒ゴミの日に見つけた小さな絨毯(しかも新品)をボンネットに乗っけている。足跡はもう付かなくなったが、彼らの居心地に大きく作用したらしく、却って猫が増えた様な気がしている。まぁ、車に傷が付かないし汚れないから、今は彼らに「どうぞ」と手招きまでするようになった。

13日の餅つきはなかなか盛大に終わった。僕は少々餅つきを嘗めていたようだ。段取りとしては少々ぎこちない点もあったが、よく動いてくれた女性陣や餅つき慣れしている男性達に助けられなんとか事なきを得た。夕方、参加者の集まりの悪い中プロパンガスに点火するところから始まった餅つきも、餅米の湯気と水に濡れた石臼が否が応でも場の雰囲気を高揚させて、気がつけば30数名の仲間達が集まっていたのはよかった。反省点はいっぱいあるがそれはまた教訓にするとして、楽しんでもらえたなら嬉しく思う。

臼が割れんばかりに手慣れた杵を振り下ろしていた道埜君が、翌日にくれたメールにも「人との『ふれあい』の中で一つのものをつくり上げるのはいいものですね」とあるように、考えてみれば大人になるほどにこんな時間を過ごすことは滅多になくなってしまった。何かをみんなで創り上げる。それは、テレビの奥に見えるドミノ倒しのように、少し気恥ずかしい光景に見えたりするものである。

つまり大人とは、入りたくても入らない(入れない)傍観者だ。いつからか僕らはそうなってしまっていて、それが大人になることだなんて後ろ向きに声を発してしまう。「大人らしく」と思い込もうとしているが、実は餅米の蒸し方も、米のつぶし方も、杵を振り下ろすタイミングと合いの手も、餅粉をまいて一つずつ丸める行程も、その一つも知らないで僕はこの歳になってしまった。パッケージに四角く包まれたもの、その完成品が有り難くなり始めた大人は最早、重い杵を振り上げて必死で打ち付けた小さなあの頃をすっかり忘れてしまっている。

でも今の僕は違う。そのプロセスも、おいしさも知っている。
そんな意味での大人には、まだなれそうにないようである。


※本日のダジャレー男爵・伝言板
【でもまだ「力」で杵を振り下ろす僕は、子供にもなりきれていない】

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