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■ 中毒性日記 2002
志賀のひとりごと、日記に綴ってみました。
変態小説家
志賀による、「志賀」を舞台にした空想連載小説。
志賀自賛
志賀の、「志賀」にかけた想いのあれこれ。
年中ムキューっ
志賀、昼の顔。
The Right ? Staff
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先日書いたが、マンションの駐車場に入れる際、ボンネットの余熱にネコが乗っかってるのによく出会う季節になった。人間にも爆睡・爆眠?があるように、彼らにもそれはあるらしい。僕の車の爆音を物ともしないで、ピクリとも動かない日がある。起こしては「今度はあの車が暖かいぞ」とばかりに、愛車が足跡の餌食になってしまう。そんなときは、エンジンを吹かさずに早く止めて、ドアも静かに閉める。立場が逆転して、こっちの方がネコみたいだ。

どこからか、墓地霊園のランドスケープデザインの相談を戴き、その時に備え色々考えることがある。10/15の日記にも書いたが、どこか墓参りというものは「行かなければならない」「行っとかないと、バチが当たる」「面倒くさい」などと言われたりする。そこに自発的に行きたくなるにはどうすればよいのか。

お墓へ向かうアプローチに、石畳が存在し灯籠に灯りが点る。それはそれで素敵なことだ。しかし、それを覆し例えば足下にぼんやり浮かぶ灯りもまた新しい試みだし、その石畳に桜や銀杏並木のトンネルがあってもいい。晩春には花びらが、晩秋にはイチョウの葉がアプローチとなる。
それはもっともっと素敵なことなのかも知れない。

そもそも、墓地と身体や精神に障害を来す人の入院する病院には、悪しき共通項がある。「僻地」「不便」「寂れた」場所にあることが多い。静かで景色が良いという以外は、暗いイメージが付いて回るのだ。墓地の植栽は、松なのか何なのか定かではない地味な木々が多い。病院は無機質だ。やはりそこに新しいテーマやヒントが隠されている。

以前に書いた「車椅子の少年」(2/24日記参照)にもあるように、負い目・引け目を感じながら腫れ物に触るようにアプローチする、そんな僕等の方が心が病んでいて、彼らの方がよっぽど健常者、清い心を持つ『健情者』なんだと思う。

セオリーに反して、何かを変えることにはリスクと勇気が伴う。しかしそこにいる人達も「追いやられた」のではない心地いい場所、こんな所なら訪ねてみたいと思わせる施設、それらを創ることに大切さを今感じている。もちろんそこにもこちらにも、健やかなる『情』を持ち寄った上での答えだ。

患者さん達は近しい人達の訪問を、そして亡くなった人々もそこでじっと待っているのである。もっと身近で自然にそこに行ける手だてを、魅力あるその場所を導き出したいと、僕は今からあれこれと考えている。


※本日のダジャレー男爵・志賀
【Steelers伊藤剛臣のあの髪(丸坊主)を、僕は勝手に「月に2回は散髪屋に行っている」と踏んでいたが、ナント自分で今時小学生でもやらないバリカン刈りをしているようだ 最初6mmの設定のつもりが間違って3mmで刈って以来、あのスタイルだそうだ どうでもいい話だが、自宅でそうやっている彼を思うと、なんとも愛らしい、経済的なラグビー選手だと思う】

※本日、勤労感謝しながら、店を開けることにする
さて誰が来るのだろうか……?

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