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■ 中毒性日記 2002
志賀のひとりごと、日記に綴ってみました。
変態小説家
志賀による、「志賀」を舞台にした空想連載小説。
志賀自賛
志賀の、「志賀」にかけた想いのあれこれ。
年中ムキューっ
志賀、昼の顔。
The Right ? Staff
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月曜日の朝、僕は高速道路を京都に向かう。

彼岸も過ぎたがやはり京都の連休、快晴も手伝って他府県ナンバーも多い。しかし街を離れたその場所は、仁和寺から高雄に抜ける道中の山の手にある。人はいない。墓地という場所は、なぜにこれほどまでに荘厳で且つ静寂をもたらせるものなのだろう。この空気は好きである。

なのに全然ここに来ていないのは、先日の日記にある健康診断と同じく「普通はやっておかなければならないこと」をしていなかったせいで、僕は昔からそういうことは後回しにする性格のようである。「自信を持って、大きくなった僕であるまでは」なんて言い訳をしたものだ……。

四条寺町にあるそば屋は僕が高校の頃に知った店で、勇気を持って一人で食べに入ったのは大学生になってからのことだった。今から20年も前のことである。そして何度も足を運ぶ度に、同じ味、期待通りの満悦を与えてくれたことを思い出す。この日僕は初めて母とそこで過ごした。いつかの正月にここに一緒に来ようと訪ねたら休みだったこと、小学校の頃遠足で金閣寺などの寺社仏閣に行き、外国人と見るやサインをもらってそれを家族に見せたこと、そんな他愛のない話を母とゆっくり出来たのも、会話の邪魔をしないこの「変わらない」味があったからこそである。そして遅すぎるが、この日にやっと解った。

母の父、つまり僕にとっての爺ちゃんは去年の2月に逝った。そしてその墓には、皮肉にもまだ爺ちゃんが元気で「ここにボク(いつも爺ちゃんはこう言った)が入るんや」と一緒に見に来た以来である。霊は彷徨うこともあるとは言え、そこに入るといつも亡き人はやはり待つのみとなってしまう。

僕がこうして母とここに来て、爺ちゃんが好きだった僕達の元気な姿を見せ帰って行く。それだけでいいんだ。もちろんそこには、成長という報告があってもいいし、生前爺ちゃんには見せられなかった恋人との姿でもいい。でもそれは「僕が自信を持って大きくなってからの姿を見せる」こととは全く別の話なのだ。爺ちゃんが求めるものは僕の「今」なのである。

「そこにある、いつも変わらないもの」は、そこを訪ねる人々に晴れやかな気持ちを与えるものとなる。僕が会いに行く爺ちゃんの墓もそうなんだけど、それは「彼から見える僕達」にも言えることなんだと気付いた。

そしてあの店の味と爺ちゃんは、僕の中でもずっと変わらないでいる。


※本日のダジャレー男爵・志賀
【名神高速、大学のあった茨木を過ぎた辺りにはたくさんのホテルがある シティではなく、いかがわしい系である その系のホテルの名には、昔なら漢字だけや○○エンペラーなる高級イメージ、近頃ではメルヘンチックなものもあるが、学生時代のままだとなぜか安心する あまりにベタな「ふたり共和国」というホテルを横目に、古館一郎がアンドレ・ザ・ジャイアントを称して「ひとり人間山脈」と言ったのを思い出した と言いながらも、コノテのファッションホテル(この言い方もチョイと可笑しいが)のことを「いかがわしい」とは、愛の営みに対しての冒涜である 愛の営み……
おぉ、ちょっとご無沙汰、加納町 志賀でございました】

※「志賀」に来た、ちょっとEE(ええ)メール
【今日は長いので、また!】


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