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■ 中毒性日記 2002
志賀のひとりごと、日記に綴ってみました。
変態小説家
志賀による、「志賀」を舞台にした空想連載小説。
志賀自賛
志賀の、「志賀」にかけた想いのあれこれ。
年中ムキューっ
志賀、昼の顔。
The Right ? Staff
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向かいの玉突き屋さんに、数名の外人さんがビリヤードに興じていたので、小さな声で「フーリガンちゃうか?」と仲間に言うと、聞こえたらしく「僕ら、フーリガンちゃうでぇ〜」と見事な関西弁で返してきた。神戸の外人さんは侮れない。

先日、出席した結婚式はチャペルにて行われた。信仰心はないから、唄い慣れない讃美歌やドラマでしかほとんど見ない式の模様に、新鮮さや気恥ずかしさを感じながらも収穫はあった。異国の牧師が語った、聖書による「コリント人への第一の手紙13章」からである。

『愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。
 愛は自慢せず、高ぶらない
 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない
 不義を喜ばず、真実を喜ぶ
 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える』

なんだ、こりゃ。いやいや、素晴らしいがイマイチピンっと来ない。実は僕が小学校から覚えている以下の一節がある。もちろん意味なんてわかりゃーしなかったが、子供ながらにまる覚えしていた。今から思えば、ませたガキである。

『愛は平和ではない 愛は戦いである
 武器の代わりが誠であるだけで、それは辛く厳しい、
 自らを捨ててかからねばならない戦いである
 娘よ、この事を覚えておきなさい』

これは、生半可な記憶によるとネパールの大統領が娘に宛てた手紙であったと思う。先述のものと比べると「愛」というものは斯くも多様な捉え方がある。

小説家や音楽家達は、活字や楽器・譜面を通して、異性に愛を語るかの如く表現する人が多い。辻仁成なんて職権乱用である(ちなみに、ミポリン〔凄いなこの呼び方〕ファンではない。どちらかというと、吉本新喜劇の中山「美保」の方がおもしろい)そう言えば僕も、最近のこの日記は「自分が好き」光線ではなく、誰かに発信しているのではないかと言われたりしている。確かに、以前は「自分が、自分が」を通してきた。心情的には、それは今も変わらないでいる。しかし、読者を意識するがあまりの日記は、もはや日記ではない(元々日記ではないが、輪を掛けて)。今の僕は愛に飢えているのか…?

でも愛なんて語り始めたらやばい気がする。恋愛という言葉があるけれど、恋と愛の同居など無いと思っている。しかも僕は屈折していて、「愛」を「哀」と読み、「恋」を「故意」と感じることの方が多い。自然な流れの中に起こることであって「求めるものじゃない」ということしか今の僕には解らない。

「オペラ座の怪人」のラウルは『本当に大切なものは手に入らないもの』という結論を観せた。平成のプレイボーイ・加納町 志賀はそう自分に言い聞かせ、今日もまた店に立つ。愛を求めて……。(って、求めるんかいな!)


※志賀私的伝言板
【でも「愛を下さい♪」なんて、辻仁成よ、都合良くねぇーか?「決めてくれ」の日本サポーターみてぇじゃねーか!初めて出会ったのがシャルル・ドゴール空港だとーっ!そして「やっと会えたね」だぁーっ!ふざけるなーっ!!……って、かなり笑えるエピソードなのに、あの世界だから許されることなんだな】


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