www.bar-shiga.com
■ 中毒性日記 2002
志賀のひとりごと、日記に綴ってみました。
変態小説家
志賀による、「志賀」を舞台にした空想連載小説。
志賀自賛
志賀の、「志賀」にかけた想いのあれこれ。
年中ムキューっ
志賀、昼の顔。
The Right ? Staff
ホーム >>>
4/20「トイレット考」 バックナンバー >>>
昨日の日記を休んだのにいきなり「トイレ考」とは失礼な話であるが、まぁ聞いてもらおう。 TOTOやINAXから執筆依頼来たら、どないしよ。

今時、トイレと言えば所謂「汲み取り式便所」は絶滅に瀕しないまでも、特別天然記念物くらいにはなった。和式便器もあんまりない。僕が子供の頃、田舎には「肥溜め」なんてものがあって、そこに落ちた奴までもいたものだ。人にとってトイレは必然的に利用され、そして改良はほとんど淘汰されたと言っていい。今ではグローバルに便座があるのは当たり前で、シャワー洗浄機までをも備えている(01/11/22「時代はウォシュレットと共に」参照)。そこに住む人までいる? (01/12/8「トイレの意外な落とし物?」参照)

近頃トレーニングの成果が出てきて、便器に「はまらない」し「はまりそう」にもならなくなった(2/23「おっさんか、おっさんでないかの基準」参照)。しかし改めてみるとトイレネタが多いな。やはり、排泄欲は切っても切れない、いや切ってはいけない。思うに、昔の便器は屈んで用を足すわけだから、自然と足腰がしっかりしていた気がする。ベッドが増えたせいで「伸び」をしなくなった生活事情に似ている。これは発見だ。

「和式便器」はいかにも「和」だと思う。なぜなら『例えドアを開けられ、尻は見えても顔は見えない「頭隠して尻隠さず」から考察される、日本人の「奥ゆかしさ」「謙虚・謙遜」「恥じらい」がその文化・カタチを生み出した』さもありなんと勝手に解釈する。実際、小学校で「大」の用を足すことは勇気のいることだったし、それがバレるといきなり「学校でウン○をした奴」とやり玉に挙げられたものだ。そのトラウマは大人になってもそう簡単に拭い去れるものではないから、基本的にSteelers南條賢太のように、「ここ来ると便意が増しますわぁ」と言って毎回僕の店で堂々と「イタす」奴は稀である。

しかし「和式」は無防備である。いつ誰のノックがあるやも知れぬ。鍵を掛け忘れたら最後、あなたはこの人生に於いてかなり上位の屈辱、いや恥辱を味わうことになろう。尻丸出しである。その昔、新幹線の「和式」は車両と平行に設置されているため、ドアが開くと「横スタイル(まるで、スキージャンプ競技の助走か滑降)」で顔まで見えた。かなり恥ずかしいが、今は昔の話である。

そう考えると「洋式」は潔い。ドアが開けば、顔が丸見えである。ノックも返しやすい(ただ僕の店はさすがに洋式ではあるが、便器からドアまでが遠く、ノックに対応する人は気の毒であるので出来る限り「今入っておられます」と先に言うようにしている)。外国の映画でよく目にする、下から20cmくらい開いたドアにも、潔さが現れる。「俺はここにいるぜ!」とアピールする辺り、欧米の前向きな姿勢が感じ取れる。機能性・対応性・快適性などどれをとっても優れている。後世、日本の主流が「洋式」になったのも頷けるわけだ。

なぜそこまで「洋式」擁護に熱く語るのか、最後にこんな話を記す。高校時代、体育祭の応援団をやった。その練習のためミーティングをした際、みんなである友人宅に徹夜する。翌朝、僕は寝ぼけ眼で階段を下り1階にあるトイレを開ける。なんとそこには洋式便器に座って新聞を広げる、そこの親父さんがいた。「あっ、どっどうも、お邪魔してます」しどろもどろ(死語)で意味不明のことを言い慌てて閉めようとすると、親父さんは「ゆっくりしていきぃ〜(いきなさいの意)」と言ってくれた。「洋式」はかくも人間を潔くし、これほどまでに寛容にしてしまうのか、心温まるエピソードである。

確かに「和」にも風情があったことは否めない。しかし確実に進化してゆく生活事情に於いて、「奥ゆかしさ」より「快適」を求める世の中になった。ここまで読んだ人は「志賀、アホちゃうかぁ〜」と思っているかも知れない。僕もそう思う。ではそろそろ書くのを止める。そう、臭い物には蓋をする。


※志賀私的伝言板
【別に今日書くほどの話でもなかったな……】


Copyright@Toshiya Shiga. All Rights Reserved.
Send Mail to Shiga