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あの日僕は大学の後輩と電話で朝まで話していた。1994年の年末に僕は彼女に見事に振られ、双方を知るその後輩にうだうだ話を聞いてもらっていたのだ。当時僕の住む垂水区塩屋・ジェームス山のマンションでは3番館建設に伴う工事が始まっていて、廊下側にあるベッドルームは朝になるとその騒音に悩まされていた。だから僕はその日、和室にいた。電話を切ったのが午前5時、荒ゴミ回収日であることを思い出す。空き缶を捨てにゴミ置き場まで行った。
そこに背の低いソファーが捨てられていて、僕に助けを求めているように見えた。触れるとなぜかまだ痛みが見られない。僕は2分割のその椅子を往復してエレベーターで運んだ。今から思えば、なぜそんなものを持って帰るに至ったのか解らない。ただ、まだ使えるはずのこのソファーが愛おしく見えたのか。こじつけて言うのなら、彼女のいない冬に寂しさを隠せずに、生活に変化が欲しかったのかも知れない。往復は苦ではなかった。
家の和室に並べると、妙に違和感無く納まる。やはり愛おしさが増す。同じ部屋の布団に入り、それ程時間を要せず眠りに着いた。そして間もなく…。
1995年1月17日午前5時46分。阪神淡路大震災は、数々の人生を狂わせて、多くの人命をも奪った。被災して3ヶ月間神戸を一歩も出なかったお陰で、僕は神戸がよりいっそう好きになった。あの時京都の実家に逃げ込んでいたら、周りから同情され僕は自分の被災経験以上に吹聴していたかも知れない。神戸にいれば、不謹慎な言い方になるが、僕よりひどい状況の人が一杯いた。何も語れない現状が、僕を強くした。そして8月に店をオープンすることになる。
あれから7年。もうすぐあの時間だ。神戸っ子とはまだ呼べないが、神戸が僕の人生に大きく働きかける力に、まだここを離れられないでいる。あの6400人余の尊い命を奪った震災を外から鎮魂するのではなく、神戸で感じている。テレビから流れる映像と共に、窓の外に向かって黙祷した。
和室にはまだあのソファーが鎮座していつも僕を見守っている。
だからいつまでもあの日を忘れない。忘れるはずもない。
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