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■ 中毒性日記 2001
志賀のひとりごと、日記に綴ってみました。
変態小説家
志賀による、「志賀」を舞台にした空想連載小説。
志賀自賛
志賀の、「志賀」にかけた想いのあれこれ。
年中ムキューっ
志賀、昼の顔。
The Right ? Staff
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涼しい。つい最近まで、体温より暑い毎日に閉口していたのにもう9月だ。この風は秋を意識しないではいられない。悲しく落ち込んでいても、最高に楽しい出来事が巡ってきたとしても、当たり前のように、放って置いても季節は通り過ぎるものだ。移ろいゆく季節に、僕は思う。四季は「喜怒哀楽」と似ている。今日は特に理屈っぽく…。

相似点は、四季も喜怒哀楽も双方それぞれに明確である、ということである。しかしイメージでは、春は新しい出来事やチャレンジのスタート、夏は開放的に、秋は少しもの悲しく、冬は寂しく、来る春を待つ…なんてことを想像するのが一般的だが、これは一概にそうは思えない。春夏秋冬、悲しい春もあれば、冬に雪がコンコン、犬は喜び庭駆け回ることもある。

『喜』には顔で笑って心で泣いて、もある。『怒』単に腹が立つ場合と、前向きに愛情のある怒りもある。『哀』悲しい出来事に打ちひしがれて泣く時も、哀愁に代表される「大人特有のうら悲しさ」もまた存在する。『楽』に至っては、誰しもそれに越したことはないが「楽チン(文末志賀死語参照)」なんて言って、毎日を軽率に生きれば足下をすくわれることとなる。

つまり喜怒哀楽が読んで字のごとしとは言えないように、体感する季節は変われど、それぞれ四季のイメージで人間のバイオリズムが全て左右されるわけでもなく、いつ何時でも悩むときは大いに悩み、嬉しいときには思いっきり笑っているものである。表情を豊かに生きることや、新しい季節を迎えることを意識すること自体をとても大切に感じている。だから極論を言えば、喜び・怒り・哀しみ・楽しく、生きることをあまり表面に出さない人には、四季なんてさして重要ではないのではないか、とまで思う。

もう僕は37回の春・夏を過ごし、今また37回目の秋・冬を迎えようとしている。この歳になっても未だにはっきりした性格だから、僕は新しい季節を大いに感じて、また気持ちの引き締まる思いがしている。喜怒哀楽を遠い彼方に置いてきてしまった人には、理解し難いことなのかも知れない…。


志賀死語90
『楽チン』:楽勝・楽々のように、ちょ〜(超)楽、を表しているのだろうが「チン」とは何ぞや?
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