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■ 中毒性日記 2001
志賀のひとりごと、日記に綴ってみました。
変態小説家
志賀による、「志賀」を舞台にした空想連載小説。
志賀自賛
志賀の、「志賀」にかけた想いのあれこれ。
年中ムキューっ
志賀、昼の顔。
The Right ? Staff
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僕の住むジェームス山のここは、418世帯もあるファミリーマンションだ。各戸に3人としても1200人が住まう。住み始めた頃はまだ僕のいる2番館までしかなく快適であったが、5番館まである今は必然的に子供の数がやたらと多い。僕は小学校の時、雨の日に「エレベーター遊び」と称して、全部ボタンを押したり、落書きしたり、鬼ごっこに使ったりしていた。当然廊下は走る。しかし今は幸いにも、僕の住む階には4戸しかないので、廊下を走る子供はほとんどいない。長い廊下にスリルがあるのだ。

近くに公園があることにはあるが、赤ん坊と若奥様の所謂「公園デビューの集い」のため、幼稚園年長組から小学生の遊び場は、マンション内の広場であることが多い。駐車場まで行くのに、必ずそこは通らなければならない。雨の日以外は当然、彼らの独壇場だ。大人は邪魔をしないように避けて通る。子供はそれぞれの遊び道具で大人並にコミュニティを形成する。

僕がそこで人気者になったのは、やはり6階に住む小山氏の子供、ヨウヘイくん(8歳)とヒトミちゃん(6歳)のおかげであろう。小山氏は大学ラグビー部の先輩で、偶然このマンションで再会した。震災の時には食事をよくさせてもらい、本当にお世話になった。奥様にもお世話になっている。いつも朝方に帰る僕を不審に思う住民に、COOP生協配達のロビーでの集まりで「怪しい人ではないの」と言ってくれたし。そこで今度は子供に、である。

いつものように僕は、駐車場に向かう。夕方の広場にはカラフルなビニールで出来た「縄跳び」をしている軍団。そういえば僕の時代も、縄ではなくこのビニールだった。その中に、ヨウくんとヒートン(ヒトミちゃん)がいて「志賀さ〜ん」と駆け寄ってきた。つられて、5〜6人の子供達もやってきた。「うわっ、おっちゃんや。ヒゲのおっちゃ〜んやー」無精ヒゲの僕に一人がいうと、今まで志賀さんと言っていた二人も「おっちゃん、おっちゃ〜ん」と言い始めた。やはりコミュニティ、子供の世界も同じ、右へ倣えだ。ここで「おっちゃんじゃないのよ。お兄さんよ〜」と諭すのはそれこそ、おっさんのすることだ。僕はすぐさま、ヨウくんの緑色のビニールのそれを取り上げ、連続2重飛びを披露した。ヨウくんが言った。「志賀さん、すごいなー。もう一回やって」その時から僕は、彼らからおっちゃんではなく、いつでも『志賀さん』と呼ばれるようになった。

僕は、彼らと出会うたびに何かをやらされた。サッカーのリフティング。キャッチボール、バッティング。重いものを持ち上げたり、高い塀を越えたり、走ったり、手品までしたり…。はっきり言って専門家にはまさしく子供だましではあったが、彼らより多少優れているだけで僕は「おじちゃん」でもなく「大人」でもない、コミュニティのメンバーになっていたのだ。車まで行く短い時間の出来事なので、ぼろが出ずに済んだのもよかった。おまけに、彼らにとって珍しいオープンカーだから、みんなで見送りまでしてくれる。女性と一緒の時は、ヨウくんが気を遣ってみんなを見送りに来させない。後日会ったときに、コミュニティ会議にでもかけられたのか「あの女の子はあかんで」と、大人のように批評される。彼らから得るものも多いので、時間のあるときにはゆっくり話を聞く。いつしか僕は、彼らと一緒に学校には行かないけれど、夕方の同志になっていた。

今日もまた件の広場には彼らが居る。「志賀さ〜ん」一輪車に乗ってヒートンと何人かが寄ってきた。「一輪車、やって〜」彼女たちはエレベーターでもそのまま乗れるようだが、僕の時代にはボードビリアンか、新春かくし芸の堺正章にしか乗れなかったものだ。

「今日は時間がないからまた今度!」おっちゃんは、いっぱいいるけれど『志賀さん』は一人だけだ。一輪車ごときで、おっちゃんに戻りたくはない。


志賀死語14
『ケンコー竹馬』:今も竹馬はあるようだが、当時竹製の竹馬はほとんどなくなっていて、学校にケンコー製プラスチックと金属のがあった。爺ちゃんは大きめのミカンの缶詰で作ってくれたな。
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