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■ 志賀自賛
志賀の、「志賀」にかけた想いのあれこれ。
中毒性日記 2001
志賀のひとりごと、日記に綴ってみました。
変態小説家
志賀による、「志賀」を舞台にした空想連載小説。
年中ムキゥーッ
志賀、昼の顔。
The Right ? Staff
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店が早く終わると帰りに、極たまに一人で寄るお好み焼きやさん。長田にあるここは、おばさんが一人でやってるなぜか安心する店だ。どう見ても地元のおっちゃんおばちゃんと見える人達。「最近変なメール多いからなぁ」とお互い新しく変えた携帯アドレスを交換している。この世代まで巻き込む情報通信の時代に、20世紀の初めから21世紀の今年まで100年近く、人や流行に流されることもなく、自分の好きなことをやり通して生涯を全うした祖父の話をしたい。おそらく僕は彼の影響を多大に受けて、生きている…。

僕は1964年6月、東京オリンピック・東海道新幹線開通の年に、京都下鴨に生まれた。市内の北部左京区に位置し、疎水縁の宝ヶ池もほど近い閑静な住宅地だ。大文字焼の「妙」が真北に見える。物心ついた頃にはいつもこの家の屋根に爺ちゃんと登り、まだ明るい時間から大文字焼きの山を双眼鏡で眺めながら、点火するまでを見ていた。いつもなぜか火がついてすぐに、爺ちゃんと僕は家に入る。思えば点灯後の方がきれいだろうし、人も集まるだろう。神戸のルミナリエも点灯の瞬間を見るのが好きなのは、この頃のトラウマかもしれない。いつもこの瞬間のために屋根に登った。大文字焼は、メインの東山「大」、「妙」「法」「舟(帆掛け船のカタチ)」「鳥居(のカタチ)」、そして西方向しょうざんのの「大」があり、爺ちゃんちの屋根からは、東山の「大」「妙」「舟(建造物高さ制限のある京都でも、今はもう見えなくなっているが)」が見えた。とにかく、爺ちゃんとの想い出はいっぱいある。生家がそこにあったこともあるが、僕は爺ちゃんに憧れ、尊敬していた。

爺ちゃんは若い頃競歩の選手だったらしい。富士山登頂競歩では優勝。「今まで2位以下になったことがない」と本当か嘘かわからないことを言っていた。僕が小学校4年で伏見に引っ越しするまで、いつも僕はおじいちゃんの背中を見て歩いた。手を引っ張ってあげるどころか、追い越そうにも追い抜かせない。その頃70歳の爺ちゃんは、その辺の大人より背筋がピンと伸びていて、歩く人を追い越してゆく。僕はいつも走るように付いていった。

爺ちゃんは、小学校の校長を経て塾で数学を教えた後、京都発明学校の代表をしていたが、そこでは発明品の特許申請の方法を教えたり、講演をしたり、京都の名だたる社長さん達もそこに子供のように発明品を持ってきていた。爺ちゃんも毎日のように何かを作っていた。荒ゴミの日には僕を連れて、ガラクタを拾いに行く。僕はその頃、晴れた日なのにいつもお気に入りの黄色い長靴を履いていた。4歳の頃、警察に捜索願を出されたことがあるらしく、家から5kmほど離れた場所に、更に家から反対方向(しかも車道)に黙々と長靴で歩いているところを保護されたそうだ。爺ちゃんとも、いつもその長靴でガラクタを抱えていた。家に帰ると分解が始まる。隣で僕は爺ちゃんのまねをして捨てられていたトースターをバラバラにしていたりした。婆ちゃんはそのガラクタを捨てに行く。だから家はガラクタの山にならないことを僕は知っていた。子供ながら、それは言ってはいけない気がして、爺ちゃんには黙っていた。

爺ちゃんの発明はくだらないものばかりだった。掃除機がまだでっかくて、キャスターと蛇腹ノズルが付いている時代に、その中身を変えてノズルを取るとそこにはレンズが。そこから映像を映す『移動式幻灯機』。その掃除機の蛇腹の先に付いている筒は『天体?望遠鏡』になっていた。なぜかいつも僕は引っ越ししてからも月だけを見ていた。何せ天体望遠鏡だから、太陽は見るなと言われていたし。ある日、学校で習う月のクレーターとは少し違うことに気付く。すごい発見をした気になってわくわくしていた。高学年でそれが、天体ではなくただの望遠鏡だったこと(金持ちの子供の持つ黒くてレンズが大きくて、スコープがダイヤルで調整できるやつと違う!)、月の上下が逆に映っていたことに愕然とした。やはり爺ちゃんの発明はくだらない。

『ミニ温室』というのもあった。大きめの植木鉢に円筒状にビニールが巻いてあり、天井にはきれいに同じくビニールがアール状に覆い被さっている。これはすごい発明かもしれない。今で言う家庭菜園か、ガーデニングか。中には最近見なくなった「ほおずき」がきれいなオレンジ色をしているのが透明のビニール越しに見える。爺ちゃんはよくほおずきの実を柔らかくして種を取り、膨らまして鳴らしてくれた。僕には一度も出来なかった。ところがその天井部分に被さっているビニールは、当時まだメジャーではなかった「ビニール傘」を置いただけのものだった。この安直な発明もやっぱり趣味の域を出なかった。

それでも爺ちゃんの名誉のために言えば、特許さえ取ればとてつもなく儲かっていたはずの発明もあった。今から5年ほど前にイギリスから発売された3Dカメラ。爺ちゃんは30年以上前にそれを創っている。小さいながら背景に人物が浮かんで見える写真にびっくりした記憶がある。でも爺ちゃんには欲がなかった。僕やみんなを驚かせることを生き甲斐にしていた。幼少時代、いつも爺ちゃん手作りのおもちゃがいっぱいあった。竹とんぼのようなもの、スケボーのようなもの、万華鏡のようなもの…。今では普通に存在するものが、全て手作りで僕の手元にあった。くだらない発明の数々は、僕には宝物だった!

爺ちゃんの調子が悪くなったのは昨年。年末からは寝たきりになった。亡くなる1週間ほど前に下鴨を訪ねたときは、入れ歯もなくほとんど話せない状態なのに僕の手を握る力はあったし、確かに僕だと解っていたと思う。

平成13年の今年2月12日、94歳になるはずだった爺ちゃんは逝った。葬式は14日、告別式には写真を撮る担当になっていたので、前日にカメラを買った。数多く並ぶその中で、なぜか懐かしく古ぼけたカメラがあり、思わず値段も安かったこともあり購入した。思えばこれは僕が小学生の時、爺ちゃんがフィルムケースと何かをくっつけて作ってくれたカメラにとても似ていることに気付いた。そしてその日の店が終わった夜中、僕はとんでもない交通事故に遭ってしまうことになる。告別式には痛い身体でそのまま出た。荒療治ではあるが、爺ちゃんが救ってくれた気がしている。家族はおろか親戚の誰にも言えない中、爺ちゃんの黒い縁取りの写真がそう語っているように思えた。孫達の中でずっと泣いていたのは僕だけだった。火葬場に入るときも、母の震える細い肩を両手で支え一緒に泣いていた。

長靴で家出したあの日、どこに何のために歩いていたのか未だに解らないけれど、爺ちゃんのように自分の足で歩いて、好きなことを全うする人になりたい。骨になった姿は、背骨も骨盤もきれいに残っていた。僕はその骨を大事に持っている。一緒に歩いて、何の発明品に使うか楽しみにしながらガラクタを拾い集めたあの頃に、いつでも戻れるような気がして…。

さよなら、爺ちゃん。さよなら、歩くのが僕より速かった爺ちゃん。


親愛なる発明家へ捧ぐ 敏哉より

(2001/05/18 記)
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